今週のお題「思い出の先生」

 

小学生のときから、割りと良い先生に恵まれていたと思う。

今振り返ると、けったいな思想を持った先生はおらず、かといって

ビジネスライクに教育を行うわけでなく、人情味の溢れる先生が多かった。

 

人格の形成といった情操教育の面では、おいといて

学校の学習に対して真摯になることができたという点で、私の思い出に一番残る先生は、高校のときの数学の先生だ。

 

「教師というのは師という漢字から表わされるように、教える子どもたちの師匠である。すなわち、教師というのは職人であるべきである。」

私の父親がこのような主旨の言葉をよく言っていたので、私の中では、小さい時分から「教師=職人」というイメージが確立されていた。

 

上述の数学の先生(以下、K先生とする)は、まさに「職人気質」の先生であった。

私が通っていたのは、中高一貫の私学で、その先生は、中学上がりのトップ層のクラスと、高校受験で入学した上位層のクラスの数学を担当されていた。

また、K先生は、長い間公立の進学校で教鞭をとり、教頭や校長といったポストにもなれるにもかかわらず、「私はクラス担任を持たない限り教師はやらない」という生粋の現場主義でもあった。定年を迎え、私のいる学校に招聘されたときも、「担任を持つこと」を条件に、移って来られたそうだ。(通常、定年後で雇われた先生は担任を持たない場合が多い学校だったため、珍しいケースだったそうだ)

 

中学校のときは、言うほど勉強には苦労しなかった(成績は、学年200人で、上位10~20番の間であった)のだが、高校に入り、数学と物理に非常に苦労することになった。

今となっては、機械設計者として数学と物理がバリバリ使われるのだが、高校のときの数学と物理は偏差値40台に突入していた。

悪いことに、物理の先生は父親が高校時代に物理を教わった教師らしく、父親は「あいつは野球のノックだけうまくて、教えるのはちっともダメだった」という評価を下されるほどで、物理については、高校を卒業するまでついに偏差値40台から脱却できなかった。

(退任されるときの最後の授業では、「私が今まで教えてきて一番楽しかったのは◯◯高校(父親が在籍していた県内トップの公立高校)でした。彼らはあなたたちと違って本当に優秀でしたさよなら」と言い放ち教室を去ったもので、本当にひどい先生だったと思う。この話を父親にすると「誰もあいつの授業を聞かずに独力で勉強してみんな京大や阪大に行っただけや」と一蹴)

 

さて、話を本筋に戻そう。

高校に入り、今までそこまで苦労しなかった数学が、こんなにもわからなくなるという現実に、私は非常に困惑していた。数学と物理以外はそう苦労しなかったため、クラスの順位は高くはあったのだが、他のクラスメイトに比べ明らかに数学だけ悪い(物理はみんな悪かった)。K先生の授業中に当てられて、間違った回答を言い続けて、K先生は「うんうん、~だね。ってちゃうわアホ」とノリツッコミ方式のスタイルを基本として、「そんな問題も出来ん奴が神大(神戸大学)なんて志望するな。ましてや理系にも来るな」と、文理選択前のぼくたち(クラスの半数以上が、神戸大学もしくはそれより上位の大学を志望校としていた)を脅しにかかっていた。

ノリツッコミ方式の授業の要点として、必ず最後まで生徒の考えを言わせるし、回答が明らかに間違っていても、その考えは板書に反映させるということがあった。計算間違いをのぞけば、この過程は証明問題の回答を論理的に考えさせるためのトレーニングになっていたと思う。

文理選択の際、工学部志望の僕は当然理系を選択し、面談に臨んだ。結構な頻度で「理系やめろ」と言われていた僕だったのだが、面談においては「阪大も十分視野に入るレベルにはなれる」と背中を押していただいた。

 

そこからは、ひたすら数学に対する苦手感を払拭する作業だったと思う。私も真摯に取り組んでいたし、K先生はもっと真摯になっていただけたと思う。書くとあっさりしているのだが、数学を通じて学問に真摯になれたという点で、K先生からはたくさんの恩恵を授かったと思う。3年間順位をほとんど落とさず、数学の偏差値は60程度に収まり、足を引っ張らないレベルにはなれた。

 

ちなみに現役の受験では、阪大は落ちた。

センター国語100点台とあの物理では、どうしようもない。

 

あと、浪人してからすぐに物理の偏差値が60後半から70になったので、やはり教わる人は大事だと思いました。

 

以上です。